雑感備忘録

文化と雑感を書いたりします。

2019.5.10『愛がなんだ』鑑賞記

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久しぶりにこういったテイストの邦画を観て、気がつけばこの映画のことを考えているのでさっと書いておく。

 

 

外角の話からすると、

とてつもなく構図を意識された映画であり

とてつもなくフード映画でもある

というのが印象。

 

主人公二人の身長差からして印象的だけれど、

人物の高低差によって立場を象徴しているように思えるシーンが散りばめられている。

テルちゃんとマモちゃんで言うと、

最初の出会いは目線が一緒。

(出会い頭に「じゃあテルちゃんだね」などという男にそもそも気をつけろよと思うけれど)

しかし、看病ついでに床に這いつくばって風呂掃除をするテルちゃんに対して、

帰ってくれと荷物まで差し出すマモちゃん。

これ以降基本的にマモちゃんが上、テルちゃんが下という位置関係。

初めて会った時からこの時点までにテルちゃんは一体なにをしてきたんだろう、と思うくらい下に見られている。

テルちゃんと葉子ちゃんも、もっとも印象的な葉子ちゃんの家の縁側のシーンで、

葉子ちゃんが圧倒的に上、見上げるテルちゃん。

葉子ちゃんもそこそこにクズだけど気高さはあったからかなと解釈している。

一方でテルちゃんと仲原は基本的に同じ目線にいる。

これはテルちゃんと仲原が精神的な位がほぼ同じだからなんじゃないかと思う。

でも実は葉子ちゃんと仲原はそうゆう立ち位置にならないし、

最後のシーンで同じ目線で景色を見ていることがわかる。

この映画の唯一の救いと言ってもいいくらい、染み入るシーンだったように思う。

 

テルちゃんとマモちゃんに戻すと、

別荘のシーンや、マモちゃんがテルちゃんの家を訪ねるシーンは、

テルちゃんがマモちゃんを見下げる構図になっている。

何かが実ったわけではないけど、明らかにテルちゃんがマモちゃんを越えたことがよくわかる。

すみれさんに向けられる眼差しをまざまざと見せつけられる中で、開眼した、というほうが近いかも。

 

番外編としてはポスタービジュアルで、

あれはテルちゃんの夢なのかなぁと想像の域を超えないけれど、

初めて出会った帰り道で、あの瞬間だけが最も純粋に、パワーバランスの整った幸せな時間だったのかなと思ってしまう。

そう思ったら映画観た帰り道でうぇーんと泣いていました。

国道沿いを号泣しながら歩く女のホラー感よ。

 

 

フード理論については福田里香先生のご著書を参照されたいが

とにかく食べる、飲むシーンが多い。

ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50
 

食べることによって関係性の移ろいや、本音を抽出する効果を生み出しているし、

三大欲求のひとつを頻発することで、人物たちの奥深くにある素や衝動性を抜群に表現していたように思う。

岸井ゆきのが飲むロング缶は最高ですよな。

 

 

昔読んだ漫画で、恋愛なんてかっこ悪いことばっかりだ、というような台詞を読んで、

あぁそれでいいんだと勇気づけられたことがある。

取り越し苦労をしたり

よくわからない感情が爆発したり

空回りして過剰接待してしまったり

時には裸になって肌を合わせたり

そういった恥ずかしさやみっともなさも含めたすべてが丸出しになる一つ一つをどう掛け合わせていくか。

そこに二人の関係性が宿るわけであって、

だからこそ愛おしいと思える。

登場人物それぞれ歪さはあるけれど、

どんな人にも彼らがもつ何かしらのエッセンスはあるはずで、

ゆえに観ていて苦しかったり辛かったりする。

テルちゃんはその最たるものだし、

象の飼育員のくだりで泣くシーンにつくナレーションなんていやいやいや全然違うだろと場内総ツッコミだったはずだけど、

何か一つくらいはテルちゃんの行動に心当たりがあるんじゃないかと思う。

テルちゃんのエキセントリックさという表層の奥を見つめればこそ、自分に投影される映画なのかな、という印象だった。

 

圧倒的なのは、

テルちゃんがマモちゃん自身のことを実はそんなには見つめていなくて

それほど相手を思う自分への陶酔に終始している点。

じゃなかったら具合悪い人に味噌煮込みうどん作らないし。

だから「愛がなんだよ」と罵るわけだし。

ものすごくエゴを感じるけど、一番野生的だし、本能的なんですよね。

だから主人公の造形としてとても強いし、なんだか憎めない。

 

 

とにもかくにも、いろんなことをぐるんぐるんに考えさせられる良い映画であった。

愛情ってなんだったっけと、

久々に深く考えるきっかけをもらったように思います。

 

とりとめもないけれど以上。

2019.3.15 Base Ball Bear 「LIVE IN LIVE〜17才から17年やってますツアー」Zepp Diver City公演 感想記

※セトリを記載しながら書いていますので、未見の方はご注意を!

 

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いつだって最新が最高、という言葉は、アーティストのリリースやツアーがあるたびにこすり倒されてきたフレーズな気がするけれど、

一昨日のBase Ball BearのZeppDC公演は間違いなくそれであった。

体感として、いままで観たライブの中で最高のものだったし、この先も忘れられないものになると思う。

 


先週末の公演延期という事態を踏まえて、

ファンは固唾を飲んで公演の実施可否を案じていた。

実際開催のアナウンスが小出からされても、本当に大丈夫なのかと疑ぐるほど。

こんなに緊張するライブもそうそうない。


こちらの不安をあっさりと払拭するほどに、

小出曰く「喉はぷるんぷるんになった」というくらい快調、なんなら後半にかけては絶好調であった。

花粉症デビューしたようで、鼻声にはなっていたもののそれもまた一興。


今回のツアータイトルからもわかるように、10年以上前にリリースされたアルバム「十七歳」と、最新EP「ポラリス」を中心に組まれたセットリストは

バンドの歴史と成長をなぞり振り返るとともに、

ここからが新しい彼らになっていく予感と期待を存分に感じさせるものだった。


「17才」はまさしく今回のツアーアンセムと言っていいだろうし、

二周目の青春に到達している彼らが奏でることにより今まさにその世代を生きる人々を

あたたかく見守るようなニュアンスがある。

そこから最新曲「試される」が奏でられ、ギアがぐっと上がる。

最初に名古屋で聴いた時から一層厚みが出ており、作曲に名を連ねている関根のベースがうねりを伴いオーディエンスの感情を煽る。

今回大きい会場の醍醐味とも言える照明のバラエティの豊かさをこの曲では特に感じて、

サビでスポットの束が左右にゆっくりと、フロア全体をなめるようにふられる演出が

まさに「試されている」感覚を想起させた。

 


第一声の挨拶が「ご心配おかけしました!」というもので、本当に良かった。

後々ツイッターを漁っていたら、やはり遠征組は怒っている人も結構いて、

それは運営側の判断タイミングもあるけれど小出へのリプで苦言を呈している人もいた。

でもそこで謝るのは違う気がしていたし、案の定そうではなかったので

やはり小出は信頼できるなと思った。(どの立場)

 


「ヘヴンズドアー・ガールズ」に続き

「抱きしめたい」はとても久しぶりに聴いたけれど、湯浅のパートをそのまま弾くのではなくあえてビートをさらすようにしていて、

音の空間を堀之内のエモーショナルな手数とアレンジが埋めていた。

なくなった部分を必ずしも同じ素材で補う必要がない、というスタンスは大変彼ららしく、

曲の印象もビターなものになり、新たな方向性を開花させていた。

個人的にはこの春先にこの甘ったるい曲を聴けたのも大変満足でした。


早くライブで聴きたいと思っていた「Flame」はテンポが走ることもなく、とても大切に演奏されていた印象。

小出と関根のハーモニーも艶やかで、あぁとっても上質…!と豊かな気持ちに。

(今回2階席で見ており、左斜め前にMVのキャストさんが座っていてそれもまたオツなもんでした)


「Transfer Girl」では関根のチャップマンスティックが活躍し、

スティックの音色によりあの水面がたゆたう風景がより立体的に浮かび上がるようになっていた。

スティックはギターとベースの音を一緒に出せる便利楽器的な側面もあると勝手に思っているのだけれど、

ギターソロのタイミングで小出の方を向いて構えていたら関根側から聴こえてきてたまげたものである。

 


これはとっても個人的なイメージの話だけれど、

関根にとっての湯浅という存在もある意味で特別だったと思うし、

ほかの野郎2人とはまた違った距離感で接していたのだろうと思っている。

高校生の時湯浅がバンドの練習に来なくなったことを、関根が自分のせいだと思い込んで泣いてしまったのを小出がなだめた、というエピソードがそう思わせるのかもしれない。

(何故か妙に忘れられない話なんですけど記憶違いだったらすみません)

湯浅が抜けた時、関根は多くを語らなかったし、ともかくフルカワさんへの感謝をブログで綴っていたのも印象的だった。


そんな妄想的なバックボーンを考えると湯浅が弾いていたパートを関根が弾く、ということが、胸がきゅっとなるような感覚をおぼえ、

歌詞の世界観とも相まって号泣していたのでした。


中間のMCでは過去の話はしきってしまったから未来の話をしようという

保険のCMかとつっこみたくなるような展開であった。

(堀之内がぐだぐだと反対するのに対し小出が「いいからやってみようよ!」と寄りきるがこの二人らしい)

最近の関根から感じる、なんだか異質な人になりたがってる感が表出するような未来図が大変微笑ましかった。


こんなふうにやってきて、十七歳の中で持て余していたけれど

いまだったらこんな感じで大人っぽくできる

という一言から始まった「FUTATSU NO SEKAI」は

いままでほとんどちゃんと聴いたことがなかったのだが今のモードで聴くと大変かっこよく、再録したほうがいいのではと思うほど。

小出のギターがバキッと立つ裏で、

関根がジャジーな展開でソロを指弾きし

堀之内が軽やかに、時におかずも入れながらテンポを運ぶ。


タフな印象の余韻をそのままに「PARK」へ。

小出のラップもオールドスクールなフロウが最高に決まっており、

歌、ベース、ドラムでばっちり成立してしまう。本当にかっこいい。(普通の感想)

特に関根のベースが自信に満ち溢れており、見ている側も誇らしい気持ちになれる。


そこから「初恋」に展開していくのがとても意外だったのだが、

フロアの盛り上がりは最高潮に達しており、

まだこの曲に馴染めていない私は、その光景で

この曲に対する本人たちとファンの想いを改めて思い知らされることになった。


最後のMCはたまにある

まとまらないけど大事なこと言っているモードで、

でもそれは『ポラリス』のリリースでしっかり伝わっているよ、と応えたかった。

自主レーベルを立ち上げたことで、Base Ball  Bearという、もはやビジネスの母体になった集団を引っ張っていくのは

まず小出、堀之内、関根の三人である、ということ。

それを自分たちでは自覚しているし、2019年はそのスタートの年になること。

ここからが本当に新しいモードに入っていく、そのためにまず自分たちが先陣を切っていくということ。

そんなような趣旨だった。

ファンとしてはその想いを『ポラリス』のモードで受け取れていると思うし、

そんなことをわざわざMCで言う小出の懸命さが嬉しくもあった。


そこから入る「ポラリス」はどうしたって感情的にならざるを得ない。

オーディエンスも待ってました!と言わんばかりの受け入れ様だった。

三人がそれぞれを尊重し、そのうえで心からアンサンブルを楽しんでいることが溢れ出ていた。

自由で軽やかで、こんなに楽しい光景が目の前にあるなんて信じられないくらいだった。

書いてても泣けるわ。


ここから一挙にトップギアに持っていく。

「星がほしい」「青い春.虚無」から定番の「LOVE MATHEMATICS」、そして「The CUT」へ。

聞く度にめきめきとうまくなるこの曲、最初の驚きからすると、今では演らないことは考えられないくらいになっている。

ラップにドラム、そこにベースのフリースタイルと、

こんなことができるのは今の日本のシーンで彼ら以外いないのではないかと本気で思う。


そして最後に

「僕たちのこれまでのバンド人生はこんなふうに」と言う一言から始まる「ドラマチック」。

十七歳をリリースした時にはきっと想像していなかった未来に、彼らは今立っている。

この曲がこんなにも自分たちを表すことになるとは思ってもいなかっただろう。

伴った傷をきちんと糧にして活動してきたこの3年を昇華できるような曲を過去の自分たちが作っていたということ。

こんな素敵な巡り合わせがこの世界にあるだなんて、そんな最高なことがあるだなんて、

なかば信じがたいが目の前に間違いなくあった。

そんなことをしみじみと思わせる本編ラストであった。


アンコールはまさかの「協奏曲」。

「FUTATSU~」同様に持て余していた曲のようで、今妙齢になったからこそ上辺ではなく演奏できる一曲になっていると感じた。

喉の具合を鑑みればこれまであったWアンコールは期待できないかも、と思っていたら、

オーディエンスの要望にしかと応えるように三人が出てきてくれた。

この流れで演奏される「夕方ジェネレーション」は完全なる勝利であるし、

小出が

エビバデセイ ユウガッタ!!!

とシャウトするのも大変なる歓喜ポイントで、 三人もオーディエンスも最高潮、マックスに今この場を楽しんでいる多幸感で、会場が溢れていた。

ギター俺が炸裂したのもこの曲で、

じっくりと感情を煽るような展開がとてもセクシャルで

こうゆう時の小出は本当にかっこよく見える。(見たままの感想)

冒頭で小出が

「今日はめっ…ちゃ楽しみます」

と言っていたことが表出するかのように、

最後は小出、関根がそれぞれの愛機を高く持ち上げ、堀之内もまさにドラムゴリラになっていた。

(公式LINEで配信された画像の通りです)

こんな若手みたいなパフォーマンスするかね、と笑ってしまうくらい

本人たちがそれはそれは楽しそうで、今日来てよかったなと、その場にいた誰もが思ったことでしょう。

 


今回のツアー、個人的にはこの東京公演が初参加だった。

当初はこの「17才から17年やってます」というタイトルに日和っていて、

というのも、私が彼らに浸るようになったのはアルバム「二十九歳」からであり、

そのとき私もまさしく29歳でした。

その年齢からするとアルバム「十七歳」というのは、

彼らをスターダムにのしあげた記念すべき一枚だということは知ってはいたものの、

青春感溢れるその内容にちょっとした気恥ずかしさもあれば、

二十九歳とはまったく印象の違う作品でもあり、

いまいち耳馴染みのしない、しっくりこない感覚を覚え、聞き込んではいなかったのでした。


中盤でも書いたように、

彼らの長いバンド人生にてドロップされた曲のうち、特にファンからの思い入れの強い曲のいくつかに

まだまだ自分自身入り込めないような部分もあって

今回のツアーが十七歳も織り交ぜて構成されると聞いた時に

こうゆう自分が楽しめるんだろうか、と不安に思ったものです。

(そんなこともあって参加本数が少ない)


でもそんなことは杞憂であったと、終わった後に思い知らされました。

BBBはいつだって最新形で、その時々のモードで過去曲も楽しませてくれる、

信頼できるバンドです。

今回も、勝手に距離を感じていた私でさえその二時間をどっぷりエモーショナルに過ごしたのだから、

長く彼らを追い続けている人ほど、もはや天国の心地だったに違いないと思います。


フルカワパイセンが真性スリーピースバンドじゃん!と表現してくださったように、

皮肉なことに今この状態がオリジナルであったかのように、

アンサンブルがびたっとはまっている印象を受けた本公演。

個々の活動も目覚ましい昨今だけれど、

それらで培ったエネルギーを三人での活動に落とし込み、パンプアップしている様を見ると、

レーベルヘッドとしての責任感とたくましさを強く感じたものです。

今後の活動が明確に発表されているわけではないけれど、

ますます期待しかできないこのコンディションに、

こちらとしてもきちんと喰らいついていきたいなと

改めて思うような二時間でした。

 

 


17才
試される
ヘヴンズドアー・ガールズ
抱きしめたい
Flame
Transfer Girl
FUTATSU NO SEKAI
PARK
初恋
ポラリス  
星がほしい
青い春.虚無
LOVE MATHEMATICS
The Cut
ドラマチック

 

En.1 協奏曲

 


W en.夕方ジェネレーション

 

 

敬愛する彼らの決断に思うこと

※今回は完全に自分の備忘録です。

現場にも行っていませんし、ツイッターの現地のみなさまの声を閲覧した程度です。

考察といえば聞こえはいいが想像の域を超えないものでさえあります。

もはや妄想みたいなもんだと思ってもらいたい。

(予防線はりすぎなやつ)

 なにかあれば削除します。

 

敬愛するBase Ball Bearが、長いキャリアの中で初めて公演延期という判断をした一昨日。

それこそ

17歳から17年やってますツアー

というタイトルの通り、17年間のキャリアの中で初めて、というのだから驚き。

なにせ湯浅が抜けた時ですら、脱退後数日という、圧倒的に日数の浅いなかで

フルカワパイセンの力を借りてツアーを決行したのだ。

それくらい、ライブを大事にしているバンドだということは、ファンであればよくわかっていることだし、

最近はツアーが終わるたびにツアーを発表していたので、

我々ファンもライブやる、ツアーやる状態に麻痺していた節もあると思う。

 

今回は小出の体調によりやむなく、ということ。

これもファンなら誰もが知っていることだが、小出は本当に神経質な程に

体調、特にのどに気を使っているギターボーカルである。

年がら年じゅうあの

ユニチャーム超快適マスク

をつけているし、

壮絶に箱買いをしていたのをツイッターか何かにあげていてぞっとした覚えがある。

(画像のスクショしていたと思ったのですがなかった。でもきっとみんな覚えているはず)

だからこそ、前日の岡山から辛そうだったという感想を見て、

翌日の名古屋はもしかしたら…?と思っていたひとも多いだろう。

 

案の定名古屋公演は延期となったわけだが、

当日に4/19(金)に振替公演が発表されたことで、

私の思考はぐるぐると回り始め今まとまったのでこれを書いています。

文が破茶滅茶だけれど気にしないでいただきたい。

 

誤解を恐れずに言えば、

今のバンドのコンディションを考えれば今週末Zepp Diver Cityで開催される東京公演は

「絶対に飛ばせない」はずである。

自主レーベルであるDGP RECORDSを立ち上げて初めての東京ワンマン。

ゲストも多いだろうし、その中には多くの音楽ライターを含んでいるはずだ。

バンドの最新系のお披露目の場という意味合いは少なからずあるに違いない。

このことを考慮すると、大事をとっての今回の決断はやはりやむを得ないことである。

 

多少音楽好きな方ならご存知かと思うが、

現在の東京にはたくさんのライブハウスがあるにも関わらず会場不足がうたわれている。

理由は東京オリンピック開催による、キャパシティの大きい会場の改修工事が多く実施されているためである。

その結果、普段ホールクラスでやるようなアーティストでさえ、Zeppのような規模の大きいライブハウスを選んでツアーを組む。

Zeppはただでさえ、1年前くらいからでなければ金土日は会場を押さえられない。

それはここ数年如実であり、恐らく今年もほぼ埋まっていることだろう。

 

そこで今回の件。

振替公演というのは大体が3ヶ月以内の実施が限度だろう。

アーティストの年間スケジュールからしても、その時々のモードからしても、半年先にやったところであまり意味がないはずである。

そう考えると、上記のような理由から、Zeppでの振替は、あったとしてもど平日だろうが、

その場合集客は格段に落ちる。

ただでさえ会場費をはじめとしたコストがダブルでかかるのに、収入は当然ながら一回分。

想定集客を下回るうえに払い戻し手数料まで発生するわけだから、

どれだけ売れてるアーティストでも振替はいたい。

特にBBBの場合、Zeppを完売させるまでの集客はないので、これらの事情がもたらす結果は想像に容易い。

そもそも客が少なければやるほうのモチベーションも下がる。

モチベーションが下がればパフォーマンスにも影響が出てしまうだろう。

今この時期に行う東京ワンマンの重要性を考えれば、

現状のスケジュールを保持したいというのが運営的、ビジネス的な考えになるだろう。

 

ここから先は本当に妄想にすぎないけれど、

岡山が終わった時点で、もしくは岡山のリハが始まった時点で、

マネージメントサイドとしては

本人たちにはなんとなぁくわかるようなわからないような曖昧な感じで

以下の点を猛烈に整理すべく走ったはずである。

 

・まずジェイルに連絡、ダイホのスケジュール確認

・平行してライブスタッフのスケジュール確認

・救急外来の可能性ふまえ本人かかりつけの医者に連絡

・念のためZeppのスケジュールをディスクガレージの担当者に確認

 

本人たち、特に小出は粘ったに違いない。

それは当日、(これもかなり異例だと思うけど)残った堀之内、関根がステージにあがって話した通り、

ダイホというのは、前回のツアーラストで新曲「試される」を初出しした思い入れのある会場でもあり、

毎度頭がおかしいと言われるくらい盛り上がる名古屋公演は本人たちにとっても景気のいい場所なのだろう。

頑固な小出のことなので、多少無理をしてでも、と思ったとは思う。

 

一方前日には

恐らく、本当に恐らくだが、

整理されるべき件の上からふたつは決着がついていたのだろう。

カードは揃えられていたのだと思う。

名古屋という、あくまで地方都市だからこそ奇跡的に金曜を押さえられたことは大きいはず。

そのカードをマネージメントはこっそり携えて名古屋入り。

 

かくして当日、

その後の流れは公式の発表や、現場で堀之内と関根の挨拶を見た人々のつぶやきの通りである。

一度大きな波を乗り越えてきたファンたちゆえ、

誰もが小出の体調を心から心配し、

残りの二人とスタッフの対応に心から感激した。

心無い言葉を投げるひともいたようだが、そんなやつは便所の落書きみたいなもんなので放っておかれたい。

なんともBBBらしい、ひと騒動になった。

 

今週金曜、東京公演は開催されるのだろうか。

eplusから空気を読んでいないかのような当引販売のお知らせもきたことだし、

よっぽどのことがない限り、開催されると私は踏んでいる。

上記のような、ビジネス的な判断をもすれば、だけれど。

 

でもあのバンドにおいて、小出の声は重要である。

堀之内の挨拶で「おれが全曲歌う!」という愛ある壮大なボケもあったようだが、

あの声で歌われるあれらの歌詞だからこそ、胸に響くものがあるとも言える。

高校生の時に流れ上歌うことになったボーカルは、もはや欠かせないバンドのエッセンスである。

もしあの声が、と想像するだけでも涙が出てしまう。

80までバンドを続けると宣言している昨今。

その言葉をゆめものがたりにしないためにも、賢明な判断がなされることを願うばかりです。

 

 

 

 

 

 

 

2019.02.21『女王陛下のお気に入り』鑑賞記

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各所で話題だし、イギリスものだし、エマ・ストーン出てるし、ということで観てきました。

内容的に広くてゆったりしてるところで観たく、TOHOシネマズ日比谷のスクリーン1で鑑賞。

一番高いプレミアムシートで観るとどんな気分なのかしらと思ったけど、あそこに座ってる人見たことない。

 

 

(しかしこの公式サイトのコメント取る相手センスないよな…見る気が失せたよ…)

 

この日見た3本中2本が松浦美奈さん字幕で改めてすごいなと思う。

同じ字幕翻訳家の石田泰子さんのインタビューが面白かったアトロク回はこちら。

 

 

そして昨今実力作を公開し続けてる20世紀フォックス

ボ・ラプのサウンドロゴも話題になりましたが、

本作でもよ〜く聴くと趣向をこらしてあって驚いた。

大きくて音響のいい館で聴いたからわかったけど、環境によっては気づかないんではと思うような、

でも気づくと嬉しいおこだわりが施されていました。

 

お恥ずかしながらヨルゴス・ランティモス作品は鑑賞したことがなかったのだけれど、

こういった史実ものは初めてだそうで。

だからこそなのか、

歴史物ではあるものの、描写、カメラワーク、美術、衣装、全てが斬新だった。

特にカメラワークは広角レンズ、魚眼レンズが多用されていて、

本作の重要なスタンスである観客の客観性を保つのに大きな役割を果たしていた。

何より過度に照明をたかないというのが英断。

(ほぼ自然光と、暗い時は美術や演者が持ってるろうそくだけ。)

客観視点といえども、物語に集中させる効果がとても高かったように思う。

 

誰が主人公というのではなく、完全なるアンサンブルとして話が推進していくので、

観ているものは誰に感情移入するでもなく、三名の関係性のバランスとその変化を楽しんでいられる。

18世紀初頭、イギリスの国王であったアン女王、

女王の幼馴染であり、その関係性から女王も国政をも支配する、公爵夫人のサラ、

そしてその従姉妹で没落階級のアビゲイル

このアビゲイルがサラに頼み込んで宮中で働かせてもらうところから話が始まります。

 

※ちょっとネタバレめいた感じになります※

 

フランスとの戦争状態である、という状況が背景にある中で、

これまで男性のものとして描かれてきたモチーフ、テーマがすべて女性のものとして描かれている。

支配欲、地位、狩り、乗馬、性欲。

とっても爽快でした。

(逆に男性は不快に感じる人もいるかもしれないけど、鑑賞は平等に願いたいところ)

 

アンは女王だけど、身体が弱く癇癪持ちで、サラの前では甘えた子供になってしまう。

「わたしが国だ!」と語気を強めるけれど、

自我を通したいが為に虚勢を張って、実質的な政治運営はサラに任せっきりだ。

死んだ十七人の子供の象徴としてうさぎを17体飼っているけど、

アンとうさぎは紙一重でもある。

弱さの権化。

自分に愛情が注がれている状態だけが心地良くて、

そのためにサラとアビゲイルを弄ぶ。

本当に弄ばれているのは自分自身であることにも気付かず。

 

サラは一番男のよう。

アンを自分の意のままにすることで、間接的に国を支配し、自身の安定を図る。

その為にはアンに〝遊ばれてあげる〟ことも厭わない。

しかし、その安定の為にアビゲイルに大きく譲歩したことで、逆に自らを追い込むことになる。

そのほころびにも気づいてはいたのだけど、気づかないふりをする。

築き上げた自尊心を傷つけたくなかったから。

最終的にはアンに執着していたのに、「イングランドには疲れた。ここから離れましょう」と夫に対して言葉にすることで決別しようとする。

なんとも苦い去り際…そして男らしい…

 

アビゲイルはその生い立ち故にぶれないし、強い。

そして優しさも持ち合わせていた。

その優しさから最初は素直な気持ちで女王に相対していたし、

特にうさぎを介した初めての接触のシーンで目を潤ませるアビゲイルは、本来の彼女であったはず。

なにより賢明で、

「どんなことがあっても誇りは忘れない!」と役人に対して啖呵をきるほど気高く、品格があった。

しかしその気高さが生んだ結末があのエンディング。

這い上がってきたその階段から再び転び落ちないように、その気高さを保っていたいが為に、地位への執着が優ってしまう。

ラストに向かっていく中で、

アビゲイルがあるものを踏みつけているのを見つけてアンが激昂し呼びつける。

呼びつけられたアビゲイルはアンの指示に従って、アンの足をマッサージする。

お互いがお互いを牽制するかのような関係になる中で、

皮肉なことにフランスに講和を申し込み戦争が終了する。

アン、アビゲイル、そしてうさぎの群像が重なり合う映像に、サラはいない。

それぞれの表情から、遠いところまで来てしまった感は拭えない。

国の平和は保たれたけれど、今後の人間同士の関係性は、翳る予感しかないわけで。

 

正直ここで終わるかぁぁぁあという感じで、後味苦くて最高でした。

いびつな関係にハッピーエンドはもたらされないのだよ。

 

オリヴィア・コールマン

レイチェル・ワイズ

エマ・ストーン

のアンサンブルが最高で、本当にかっこいい。

介在する男性達もいい感じに頼りなくて丁度良かった。

そしてどんなにオールドスタイルな盛り方しててもニコラス・ホルトニコラス・ホルトでありました。

あとチャプター形式になってるのも要点ドン!な感じで良かったですね。

 

チャプター形式映画といえばニンフォ・マニアックも同じ手法で、

こちらはより話が複雑だったから構成として活きていた印象。

 

 

ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2 2枚組(Vol.1&Vol.2) [DVD]

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後味苦い系映画最高ですよね。

以下も感情振り回されて死ぬやつ。

 

 

 

 

 

どっちも青いな!

 

 

2019.02.21『ファースト・マン』鑑賞記

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デイミアン・チャゼル4作目の監督作、

主演は『ラ・ラ・ランド』でもタッグを組んだライアン・ゴズリングとくれば観ないわけにはいかない本作。

どうしてもIMAXで観たかったので、TOHOシネマズ新宿にて鑑賞してきました。

ど平日の昼間にも関わらずなかなかの席の埋まり具合で

日比谷なんてIMAXは1日1回だし、2D字幕はスクリーン3と、縮小早すぎるんじゃないの?と思ってしまった。

 

映画『ファースト・マン』公式サイト

 

ラ・ラ・ランド』の時にも感じた、自分の描きたいものへのこだわりの強さと

それを完璧に実行するチャゼルのドヤ顔(たぶんしてない)が今回も垣間見えるものだった。

好きだよチャゼル。お前も85年生まれの星。

 

デイミアン・チャゼル - Wikipedia

 

フィルム撮影へのこだわりでも有名だけど、

今回はシーンによって16mm、35mmを使い分け、宇宙のシーンではIMAXを採用と、

それだけでとんでもない予算がかかっているだろうことは想像に難くない。

だからこそIMAXで観たかったんです。

宇宙船周りの絵については主観のショットが多く、

閉所恐怖症の人だとちょっと参ってしまうのではないか(でもそれは当時の人が実際に体験していたものなのだけど)と思えてしまうほど

堪え難い窮屈感を体感できます。

しかも大概の宇宙ものって、宇宙をもったいぶることなくばーんと見せるけど、

月に行くまではほとんど見られない。

宇宙船の窓から「母船がそろそろ見えてもいい頃」というセリフから感じる、いよいよか!という期待感。

逆に緊迫した画面では垣間見える外の景色を見たくないから、窓を手で遮る。

当然ニールたちの主観だからこそなのだけど、だからこそ没入できる。 

 

絵もさることながら、音の演出も音楽経験者らしく饒舌です。

過去2作は何より音楽がテーマの作品だったけど、

今回は宇宙に行くまで、行った時の音も静と動を繰り返すもので

観ているものにリアルな体験をもたらす。

特に60年代のメカ感のある宇宙船のきしむ音や、たぶん何かが漏れてるんだろうなというエアー音などが

あぁやめたほうが良さそう…死ぬんじゃ…と思わせる。

今回も楽曲担当しているジャスティン・ハーウィッツのオリジナルトラックも良かった。

感情的なシークエンスのバックで流れる曲ではテルミンを多用していて、

物悲しさを後ろで支えて感情に寄り添うようでした。

 

 

First Man -Digi/Bonus Tr-

First Man -Digi/Bonus Tr-

 

 

 

このようにして絵と音で作られる緩急によって得られる没入感。

轟音と静寂。

窮屈と宇宙の広がり。

本当に突破するまでは窓からしか見えない宇宙。

宇宙については何の知識もない私がこれだけ興奮し語ることができるのだから、

宇宙モノとしては合格点間違いないのでしょう。

 

しかし以上のことは、チャゼルとしては当たり前に描写されるべき映画における空間であって、

高みを目指さざるを得なかった、寡黙なニール・アームストロングというひとりの男性の物語を現代にドロップする

ということがやはり大前提にあるのだな、と終始感じられるものだった。

そもそもこれまでと違って、今回は脚本を『スポットライト』や『ペンタゴンペーパーズ』など、実録物の名手であるジョシュ・シンガーが担当していて

大変丁寧で、人物描写も巧みだなと感じたのはそのおかげだったよう。

 

ジョシュ・シンガー - Wikipedia

 

この話に一貫して介在するのは、人の死、特に娘の死です。

娘の死を乗り越えるために月に行くことを決心するし、

ニールが月を眺めたり、訓練で意識が遠のいたり、月に向かう時に思い浮かべるのは

幼くして亡くなった娘の甘やかな髪を撫でる感覚や、

その小さな体を抱き上げていた風景。

周囲のたくさんの仲間を失っても泣かなかった男が、

娘のことでは二度泣くのです。

彼女が死んだ時。

そして月へ降り立った時に彼女を思い出した時。

書き連ねてるだけでも泣けちゃう。


月に行くという目的達成までを描く時間軸の中で、

地上から眺める月というのが象徴的に切り取られるのが印象的でした。

誰かといた時と、その誰かがいなくなった時に、

昼夜問わずそこにある月。

今ここに生きる自分と、手が届かなくなった相手との距離感のメタファーとして、月はそこに在り続ける。

最終的に〝物理的に〟月に到達したことで、死者との邂逅を果たしたようにも見えるクライマックス。

そこでニールが行うひとつの行動が、月に降り立ったことよりも、星条旗を月に降ろすことよりも、大きな感動をもたらす。

それまでの主観体験も相まって、胸がとってもあつくなる瞬間でした。

(月到達という偉業をこんなミクロの視点で描くなんて、という声もあるようだけど、

いいじゃんチャゼルだもん。そもそもニール・アームストロングの伝記が原作なんだしさ!)

 

でも悲しいことに、月へ近付くたびに、周りの人間、特に妻のジャネットとは離れていってしまう。

偉業を成し遂げることにつきまとう代償。

月に行くことが決まったのに息子たちに何の説明もしない夫にジャネットがブチキレる、というシーンがあって、わぁ大爆発してしもた…と思うんだけど、

あれアドリブで撮影したそうですよ。(パンフレット内クレア・フォイのインタビューより)

素晴らしい緊迫感。

 

月に行ったことで、ニール自身はなにかを乗り越えたけれど、妻との関係は引き戻せるか否かというラインに到達している、

ということを象徴的に表しているのが、あのエンディングだなと思いました。

最大の感動のあとに、最後に現実の苦味をもたらすというのも

チャゼル演出だなぁという感じで私は好きでした。

チャゼル好きだよ。(2回目)


犠牲と悲しみを引き連れて、それらを強さにして前へ進み、生きること。

人生のひとつの面を丁寧に描いた映画だと感じました。

じわじわと感動するタイプ。

 

じわじわと感動していたところ、

あれ、

 

 

 

このテーマって、

 

 

 

 

Base Ball Bearっていうバンドが最近リリースした『ポラリス 』っていうEPの

リード曲「Flame」と一緒なんでは????

最高か?????

 

という仮説が浮かび上がりましたことを報告して終了したいと思います。

 

 

ポラリス

ポラリス

 

 

 

 

 

 

本谷有希子「異類婚姻譚」感想記

これまでなんとなく読んでこなかった本谷作品。

アトロクのコーナー出演を聞いて、やっぱり面白いかも、と思い芥川賞受賞の今作を読んでみた。

 

異類婚姻譚 (講談社文庫)

異類婚姻譚 (講談社文庫)

 

本谷有希子新刊「静かに、ねぇ、静かに」がSNS時代に心をえぐられる素晴らしさ【宇多丸も宇垣アナも絶賛】

 


異類婚姻譚」というのは、昔話としても鉄板パターンであって、鶴を奥さんにしたり猿を旦那にしたり。

その現代版であり、本谷女史の爽やかな毒を盛り込んだ爽快な短編集であったというのが全体的な感想。

 


表題作の「異類婚姻譚」は、専業主婦である主人公の顔が夫の顔の変化に気づくところから始まる。

そこから同じマンションに住む老夫婦との関係性を交えて展開されていくのだけれど、

なんてことない日常の描写から突如異常性が炙り出されていって、それがどんどんエスカレートしていく。

思わず肌が粟立つが、よくよく考えるとと起こりえないことではない。

最終的に夫との関係性が大きく変化し、考えつかない結末に着地する。

これがですね、奇妙なおとぎ話の様相を呈しているものの、

なくはないな

とはっきり思えてしまう。

 


その結末に良し悪しという判断は下らないものだとしても、現実ではそうせざるを得ない状況に発展してしまうのも

他人と人生を共にするということのひとつの道筋であることに変わりはない。

どこかファンタジックなのに、非現実的すぎない話運びに、

お~これが本谷有希子か~と、一本目から感嘆したものです。

 


いくつかエピソードはあるのだけれど、

一番印象的だったのは「藁の夫」という作品です。

藁でできた夫と結婚した人間の女性の視点から描いたある一日。

藁でできている、ということがそもそも滑稽なんだけど、

表情があったり、筋肉の筋があったりするようで、なんとも人間らしい。

なんたってこの藁人形(失礼)、妻にマラソンの指導をしてる描写から始まるんです。

話の流れを読むと、世田谷あたりに住んでそうな高所得夫婦の休日でしかないんだけど、

度々夫が「藁でできている」ことを思い起こさせる描写が挟み込まれて、さらに滑稽。

それが、妻の何気ない(ただし本人にとっては)行為によって、夫の異常性が露出し始める。

最初は性格的な部分でおよ?と思うくらい変わっていくのだけど、

それがどんどん藁然とした、そしてそれからさらに発展した、奇っ怪な状況に展開していきます。

そこからそれ出る?とゆうような発想に膝を打ちますので、気になられた方はご一読願いたい。

 


藁である、ということ以外は夫婦間で起こりうるズレの話です。

ただ、そのズレが藁という表層をうまく使って寒気を感じる展開になる。

発想の飛躍性と、普遍性の跳躍をこんなにも鮮やかに、時に滑稽に、だからこそそら恐ろしく感じさせる。

これが芥川賞とった本谷有希子の作品か~~とますます感嘆。

 


ディテールを書くと読んだ時の驚きが減ってしまうと思った結果うすぼんやりした文になってしまった。

とにかくおすすめです。

次はアトロクでも紹介されていた「静かに、ねぇ、静かに」いってみたいと思ってます。

 

 

静かに、ねぇ、静かに

静かに、ねぇ、静かに

 

 

 

2019.01.12『アリー スター誕生』鑑賞記

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ボヘミアン・ラプソディ』の大ヒットのあおりを受けてどんどん公開規模が縮小している『アリー   スター誕生』。

初週規模からするとだいぶ小さくなったであろうTOHOシネマズ日本橋スクリーン4で鑑賞してきた。

三連休ということも手伝ってか軒並み完売していたみたい。

 


はっきり言ってやっぱり日本のプロモーションはひどい。

歌って、恋して、傷ついて-私は生まれ変わる。

映画『アリー/ スター誕生』オフィシャルサイト

いやまぁそりゃそうだけどさぁ。

こりゃどう考えてもブラッドリー・クーパーの映画だよ!

レディ・ガガの歌唱がすごいことなんてみんな織り込み済みでしょう?

 


思えば私はクーパーにはよく泣かされてきた。

ハングオーバーは違うとしても、

世界にひとつのプレイブックプレイス・ビヨンド・ザ・パインズアメリカン・スナイパー

堕落男を演じさせたらピカイチですね。

 

 

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今回は監督してプロデュースして曲作って主演やってと、

バランス力、間違いない。

特にBlack Eyesとか大きいライブシーン冒頭のOut Of Time~Alibiなんかは、曲の骨太感や弾いてる様(特にギターの運指)がもはやプロであった。

 

 

 


ストーリーの筋としては王道なんだけど、

徹底して家族というバックボーンに振り回される男と、

そんな男を捨ててもいいはずなのに愛し続ける女の関係性を軸に、

それぞれの才能がいちどは邂逅するもののすれ違っていく様が見事だった。

 


ジャクソンは究極のファザコンでありブラコンであり、

片田舎のアリゾナボーイ然としている。

ここぞというシーンで歌われるMaybe It's Timeでは、古い時代の生き方を捨てなきゃいけない、そんな時が来たのかも、というもの。

自分の才能があるのに、過去に引きずられて生きる彼は、アリーを見出したことによって「そんな時」が来たことを確信する。

でも同時に、この曲では人はそんなに簡単には変われないけど、とも歌われる。

 

 


アリーはジャクソンにとって明るい道筋となる。

初めて出会った時に彼女の歌うラヴィアンローズを聴いてうっかり泣いてしまう。

Shallowを初めて聞き、ライブで披露したその様は、兄からも義兄弟的な存在からも昔のお前が戻ったようだと言われる。

(駐車場のシーンから、ライブで初めて歌うシーンまで、前半の最高の盛り上がりを作る素晴らしい曲でした。CMだけではわからん)

Always Remember Us This Wayで、きっと彼はとても勇気付けられたはずだ。

実際に彼女との家を持った時、こんなに安らかな時間を持つのはいつぶりだろう、とこぼす。

 

 


それなのに、アリーがスターダムをのし上がる過程やその変化についていけず、彼女の道を阻んでしまうジャクソン。

やっと生み出した自分の家庭、安らぎを自らの手で壊してしまいそうになる。

大失態を犯したあとの涙は、本物だ。

だからこそ、アリーは彼を捨てなかった。

何より彼に生涯感謝しているから。

それでも社会は厳しく制する。成功者の道を邪魔することは、許されない。

 


後半部分は本当に苦しくてしょうがないけど、

出会わなければ始まらなかったことのほうが多いこの関係性は

互いの人生を間違いなく豊かにしたものだし、

それは生涯裏切らないものなんじゃないだろうか。

 


お恥ずかしながらリメイク元を見ていないのでストーリーを全く知らず観に行ったわけだけど、

それで良かったと思える。

本当に素晴らしい作品だったし、長く愛されるものになると思う。

 


ブラッドリー・クーパーはきっとクリント・イーストウッドみたいになっていってほしいものです。

 

#アリー/スター誕生  #映画感想