2019.5.10『愛がなんだ』鑑賞記
久しぶりにこういったテイストの邦画を観て、気がつけばこの映画のことを考えているのでさっと書いておく。
外角の話からすると、
とてつもなく構図を意識された映画であり
とてつもなくフード映画でもある
というのが印象。
主人公二人の身長差からして印象的だけれど、
人物の高低差によって立場を象徴しているように思えるシーンが散りばめられている。
テルちゃんとマモちゃんで言うと、
最初の出会いは目線が一緒。
(出会い頭に「じゃあテルちゃんだね」などという男にそもそも気をつけろよと思うけれど)
しかし、看病ついでに床に這いつくばって風呂掃除をするテルちゃんに対して、
帰ってくれと荷物まで差し出すマモちゃん。
これ以降基本的にマモちゃんが上、テルちゃんが下という位置関係。
初めて会った時からこの時点までにテルちゃんは一体なにをしてきたんだろう、と思うくらい下に見られている。
テルちゃんと葉子ちゃんも、もっとも印象的な葉子ちゃんの家の縁側のシーンで、
葉子ちゃんが圧倒的に上、見上げるテルちゃん。
葉子ちゃんもそこそこにクズだけど気高さはあったからかなと解釈している。
一方でテルちゃんと仲原は基本的に同じ目線にいる。
これはテルちゃんと仲原が精神的な位がほぼ同じだからなんじゃないかと思う。
でも実は葉子ちゃんと仲原はそうゆう立ち位置にならないし、
最後のシーンで同じ目線で景色を見ていることがわかる。
この映画の唯一の救いと言ってもいいくらい、染み入るシーンだったように思う。
テルちゃんとマモちゃんに戻すと、
別荘のシーンや、マモちゃんがテルちゃんの家を訪ねるシーンは、
テルちゃんがマモちゃんを見下げる構図になっている。
何かが実ったわけではないけど、明らかにテルちゃんがマモちゃんを越えたことがよくわかる。
すみれさんに向けられる眼差しをまざまざと見せつけられる中で、開眼した、というほうが近いかも。
番外編としてはポスタービジュアルで、
あれはテルちゃんの夢なのかなぁと想像の域を超えないけれど、
初めて出会った帰り道で、あの瞬間だけが最も純粋に、パワーバランスの整った幸せな時間だったのかなと思ってしまう。
そう思ったら映画観た帰り道でうぇーんと泣いていました。
国道沿いを号泣しながら歩く女のホラー感よ。
フード理論については福田里香先生のご著書を参照されたいが
とにかく食べる、飲むシーンが多い。
ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50
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食べることによって関係性の移ろいや、本音を抽出する効果を生み出しているし、
三大欲求のひとつを頻発することで、人物たちの奥深くにある素や衝動性を抜群に表現していたように思う。
岸井ゆきのが飲むロング缶は最高ですよな。
昔読んだ漫画で、恋愛なんてかっこ悪いことばっかりだ、というような台詞を読んで、
あぁそれでいいんだと勇気づけられたことがある。
取り越し苦労をしたり
よくわからない感情が爆発したり
空回りして過剰接待してしまったり
時には裸になって肌を合わせたり
そういった恥ずかしさやみっともなさも含めたすべてが丸出しになる一つ一つをどう掛け合わせていくか。
そこに二人の関係性が宿るわけであって、
だからこそ愛おしいと思える。
登場人物それぞれ歪さはあるけれど、
どんな人にも彼らがもつ何かしらのエッセンスはあるはずで、
ゆえに観ていて苦しかったり辛かったりする。
テルちゃんはその最たるものだし、
象の飼育員のくだりで泣くシーンにつくナレーションなんていやいやいや全然違うだろと場内総ツッコミだったはずだけど、
何か一つくらいはテルちゃんの行動に心当たりがあるんじゃないかと思う。
テルちゃんのエキセントリックさという表層の奥を見つめればこそ、自分に投影される映画なのかな、という印象だった。
圧倒的なのは、
テルちゃんがマモちゃん自身のことを実はそんなには見つめていなくて
それほど相手を思う自分への陶酔に終始している点。
じゃなかったら具合悪い人に味噌煮込みうどん作らないし。
だから「愛がなんだよ」と罵るわけだし。
ものすごくエゴを感じるけど、一番野生的だし、本能的なんですよね。
だから主人公の造形としてとても強いし、なんだか憎めない。
とにもかくにも、いろんなことをぐるんぐるんに考えさせられる良い映画であった。
愛情ってなんだったっけと、
久々に深く考えるきっかけをもらったように思います。
とりとめもないけれど以上。